カルロス・モントーヤ(Carlos Montoya)の生涯と功績

フラメンコギター

基本情報と生い立ち

カルロス・ガルシア・モントーヤは1903年12月13日にスペインのマドリードで生まれ、1993年3月3日にアメリカのニューヨーク州ウェインスコットで89歳で亡くなりました。 彼はロマ(ジプシー)の家系に生まれ、フラメンコギターの世界で重要な位置を占める人物となりました。

彼の父親はフアン・ガルシアという行商人で、母親はエミリア・モントーヤというギター愛好家でした。カルロスが2歳の時に父親が亡くなり、8歳の時に母親が彼にギターのレッスンを始めました。彼の特別な才能に気づいた母親は、「ペペ・エル・バルベロ」というあだ名の先生についてレッスンを受けさせましたが、すぐに生徒が先生を超えてしまいました。

音楽的キャリア

1928年、彼はアントニア・メルセ(芸名:ラ・アルヘンティーナ)という踊り手と出会い、彼女の芸術団体に加わるよう招待されました。この団体で3年間過ごした後、フラメンコの歌手、俳優、ダンサー、振付師であるビセンテ・エスクデロの団体に加わりました。

モントーヤは主に独学で学び、若い頃はマドリードのカフェ・カンタンテス(歌のカフェ)で歌手やダンサーのために演奏していました。特にラ・テレシーナやラ・アルヘンティーナのために演奏し、後にラ・アルヘンティーナの伴奏者としてツアーを行いました。

1933年に初めてヨーロッパ大陸外へのツアーを行い、アメリカ合衆国や極東諸国にラ・テレシーナのバンドと共に訪れました。日本では非常に歓迎され、東京大学で2年間ギター教授の職を提供されるほどでしたが、この申し出は断りました。しかし、教育ツールとして使用するために自身の演奏方法の映画を作ることは大学に許可しました。

革新と貢献

モントーヤはパコ・デ・ルシア以前に、フラメンコギターを世界の残りの地域、特に彼の故郷となったアメリカ合衆国に輸出するために多大な貢献をしました。 彼は1948年からフラメンコギターのリサイタルを始め、その後世界中を頻繁にツアーしました。彼は主要なオーケストラとソリストとして演奏した最初のフラメンコギタリストであり、テレビにも頻繁に出演していました。

カルロス・モントーヤは戦後の最も著名なフラメンコ作曲家およびギタリストの一人です。彼はフラメンコを単なるジプシーの歌や民族舞踊の伴奏から、世界中で支持を得ている独自のジャンルとなる真剣な音楽形態に発展させた功績があります。

スタイルと議論

1950年代までに、モントーヤはすでに確立されたアーティストとなっており、その頃、彼のギターはニューヨークのヴィレッジ・ゲートで喝采を浴びた最初のフラメンコアートでした。彼のスタイルは急速に進化しました。フラメンコの源泉と完全に決別することなく、アメリカン、フォーク、カントリー、ジャズなどの要素を取り入れました。

しかし、彼のフラメンコの普及は彼の評判にかなりの代償をもたらしました。彼の独自のスタイルは、特に伝統的なコンパス(リズム)の感覚を失ったと批判されることもありました。しかし、モントーヤは何百万もの人々にフラメンコを紹介し、それがなければ出会うことがなかったかもしれない功績は認められるべきです。

遺産と影響

彼の広範なツアーは1948年にオーケストラとの演奏の招待につながり、これが彼のキャリアの方向性を永遠に変えました。このコンサートの成功により、世界中から招待を受け、モントーヤはシンフォニーオーケストラとソロ演奏する最初のフラメンコギタリストとなりました。彼はヨーロッパとアメリカでソロリサイタルを行い、次の30年間で40枚以上のアルバムを録音しました。それには「フラメンコ・ギター」と「フラメンコの芸術」が含まれています。

モントーヤの作曲には、即興的なフラメンコ素材を含むギターとオーケストラのための組曲「スイート・フラメンカ」(1966年)や多くのソロギター作品が含まれています。

カルロス・モントーヤは、フラメンコギターを単なる伴奏楽器から独立した芸術形式へと発展させた先駆者の一人として、フラメンコの歴史に大きな足跡を残しました。その革新的なアプローチは賛否両論を呼びましたが、フラメンコを世界に広めた功績は計り知れません。