基本情報
- 本名:アグスティン・カステジョン・カンポス(Agustín Castellón Campos)
- 生年月日:1912年3月16日(一部の資料では1907年や1919年の記録もある)
- 出生地:スペイン・パンプローナ(ナバラ州)
- 没年月日:1990年4月14日
- 没地:アメリカ合衆国・ニューヨーク
- 享年:78歳
芸名の由来
サビカスという芸名は幼少期の彼の習慣に由来しています。子供の頃、生のソラマメ(habas)を好んで食べていたことから「ハビカスの子(el niño de las habicas)」と呼ばれるようになりました。その後、発音が変化して「サビカス(Sabicas)」となりました。
音楽的背景と才能
サビカスは5歳の頃に最初のギターに触れ、7歳の時には地元パンプローナの軍事パレードの際の祝賀会で演奏を披露し、その才能を認められました。彼は基本的に独学でギターを学び、10歳頃にはマドリードの劇場「エル・ドラード(El Dorado)」でコンサートを行うまでになっていました。
マドリードで彼はフラメンコギター界の重要人物ラモン・モントーヤと出会い、彼の指導を受けることになります。モントーヤは母方の親戚だったとされています。
キャリアと亡命
1930年代、サビカスは既にスペイン国内で有名なギタリストとして活躍していました。エストレリータ・カストロなどの著名な歌手との共演や、映画「ロサリオ・ラ・コルティヘラ(Rosario La Cortijera)」(1935年)のサウンドトラックへの参加など、その活動は多岐にわたっていました。
1936年、スペイン内戦の勃発により、サビカスはスペインを離れることを余儀なくされました。フランスを経由してアルゼンチンに渡り、そこで伝説的なフラメンコダンサーであるカルメン・アマヤ(Carmen Amaya)と出会い、協力関係を築きました。その後メキシコを経て、最終的には1955年にニューヨークに定住しました。
国際的な影響力
ニューヨーク時代のサビカスは、フラメンコを国際的に広める重要な役割を果たしました。彼は55枚以上のアルバムを録音し、フラメンコギターのソロ演奏という概念を確立しました。1961年のアルバム「Flamenco Puro(純粋なフラメンコ)」は、フラメンコギター史上の傑作とされています。
またジャズギタリストのジョー・ベックとの共演など、フラメンコと他のジャンルの融合にも先駆的な役割を果たしました。1970年には「Rock Encounter」というアルバムでフラメンコとロックの融合を試みています。
スペインへの帰還と評価
サビカスは1967年まで故国スペインに戻ることはありませんでした。同年、マラガで開催されたフラメンコ研究週間でゴールドメダルを受賞し、名誉あるプログラムの一環として帰国しました。このイベントには若きパコ・デ・ルシア(Paco de Lucía)も参加していました。
スペインでのサビカスの評価は、実は彼がアメリカで成功した後の1960年代になってようやく高まりました。パコ・デ・ルシアが彼を自分の師と仰ぎ、その影響を公言したことも大きかったです。
音楽的特徴と革新性
サビカスのプレイスタイルは以下の特徴を持っています:
- 驚異的な速さと正確さ
- 右手の技巧の革新性
- 清潔で明確な音色
- スケールやトレモロの巧みな使用
- 従来のフラメンコパターンの革新的アレンジ
彼はフラメンコギターを単なる伴奏楽器から独立した表現力豊かなソロ楽器へと高めた功労者の一人です。また、アンダルシア地方出身ではないギタリストがフラメンコで成功できることを証明しました。
遺産
サビカスの最後の公式な栄誉は1989年6月10日、ニューヨークのカーネギーホールでの彼への賛辞でした。その翌年に彼は亡くなりました。彼の音楽的遺産は今日も続いており、現代のフラメンコギタリストたちに大きな影響を与え続けています。
パコ・デ・ルシアは「サビカスがいなければ、今日のフラメンコギターは存在しなかっただろう」と述べています。サビカスは、技術的に不可能と思われていたことを可能にした革命的ギタリストとして記憶されています。
サビカスはフラメンコの国際化に貢献し、その音楽的遺産は世界中のギタリストに影響を与え続けています。