ニーニョ・リカルド(Niño Ricardo)

フラメンコギター

基本情報

本名: マヌエル・セラピ・サンチェス(Manuel Serrapí Sánchez)
生年月日: 1904年7月11日
出身地: スペイン・セビリア
没年: 1972年4月14日
芸名の由来: 父親のリカルド・セラピにちなんで「リカルドの息子」という意味の”ニーニョ・リカルド”と呼ばれるようになった

生い立ちと音楽的起源

ニーニョ・リカルドは1904年にセビリアのアルムデナ通り(現在はニーニョ・リカルド通りに改名)で生まれました。10歳の時に炭屋で働き始め、最初は「マノロ・エル・カルボネロ(炭屋のマノロ)」という芸名で知られていました。彼の父リカルド・セラピ・トレスもギタリストであり、父親と友人のアントニオ・モレノが最初の音楽の師匠となりました。

その後、父親と共に「マタモロス」という家具製造会社で働きました。この会社の監督もギター愛好家で、これが若きマヌエルのギターへの情熱に火をつける決定的な要因となりました。14歳の時、ヘレス出身のギタリスト、ハビエル・モリーナがフラメンコのタブラオ(ライブハウス)で初めて演奏する機会を与え、この頃から「リカルドの息子」という意味の「ニーニョ・デ・リカルド」として知られるようになりました。

音楽的発展と影響

ニーニョ・リカルドの才能は急速に認められ、フラメンコ界で名声を博すようになりました。その才能にひかれたニーニャ・デ・ロス・ペイネスと彼女の兄弟トマス・パボンは、この若き天才に注目しました。これは彼のキャリアにとって重要な転機となりました。

ニーニョ・リカルドの音楽的発展には複数のギタリストが影響を与えました。アントニオ・モレノとハビエル・モリーナの2人のアンダルシア地方のギタリストから強固なリズム感を身につけ、ラモン・モントーヤからはハーモニーとアルペジオの技術を、マノロ・デ・ウエルバからはリズムと優雅さを学びました。

彼は「フラメンコのクラシックギター」であり「現代の進化的ギター」と称されています。実際、ニーニョ・リカルドは現代のフラメンコギターの弟子たちに最も模倣された巨匠の一人です。彼は全く新しいスタイルを確立し、ギターを革新しました。単なる技術だけでなく、モダニティを追求し、従来の規範を超えて作曲においてより遠くへ到達しました。

カンテ(歌)の伴奏者としての才能

ニーニョ・リカルドはすべての偉大なカンタオール(歌い手)から最も求められたギタリストでした。あらゆる好みとスタイルに適応する能力があり、歴史上最高のカンテ伴奏者と多くの人が考えています。

ニーニョ・リカルドは、20世紀の偉大なバイレ(踊り)とカンテの巨匠たちに伴奏し、その時代に生み出された最高のフラメンコアートの特権的な証人となりました。ロス・ペイネス、エル・ピント、トーレ、エル・グロリアなど、リカルドのギターで歌うために彼の隣に座ったすべての人は、彼らがどのように歌いたいか、どのような伴奏を望んでいるかを理解する人を他に見つけることは難しいだろうという感覚を持っていました。

彼の左手による素晴らしい和音アレンジと創造的な才能によって、彼のファルセタ(ギターソロ)は唯一無二の独自のサウンドを生み出しました。彼の右手は弦の絶え間ない操作と執拗なリズムの対位法において独特でした。

ディスコグラフィーとレガシー

20歳の時に彼はディスクの録音を始めました。1927年、ディスコス・レガルはニーニャ・デ・ロス・ペイネスを伴奏するニーニョ・リカルドの3枚のディスクシリーズを発売し、1932年に再び7枚のディスクが同じレーベルから発売されました。彼は当時の最高のカンタオールたちと録音しました。

彼の遺産は後のギタリストたちに大きな影響を与えました。パコ・デ・ルシアは「リカルドは私たちの世代のギタリストの師匠だった。彼はフラメンコギターの最高峰、教皇のような存在だった。私たちは彼から多くを学び、彼を真似ようとした」と述べています。パコ・デ・ルシア、エンリケ・デ・メルチョール、セラニートなど多くのギタリストの師匠となりました。

ラモン・モントーヤとニーニョ・リカルドは楽譜表記を使用せず、耳で音楽を学び演奏しました。ニーニョ・リカルドの爪は上向きに成長する特徴があり、これが彼の演奏の独特なサウンドの一因だったと考えられています。

まとめ

ニーニョ・リカルドは、フラメンコギターの歴史において過去と現代の架け橋となり、独自のスタイルと革新的なアプローチで後世に大きな影響を与えました。彼の業績を讃えて、「国際フラメンコギターコンテスト・ニーニョ・リカルド」という名前のコンテストが開催されています。彼のレガシーは今日も多くのフラメンコギタリストたちに受け継がれ、彼の音楽は時が経つにつれてさらに偉大さを増しています。