はじめに
オペラ・フラメンカ(スペイン語:Ópera Flamenca)は、フラメンコの歴史において重要な時期を指す言葉です。主に1920年代から1950年代半ば(一般的には1920年から1955年)にかけて展開された、フラメンコ公演の形態と、その時代のフラメンコ芸術の特徴を表しています。この時代はフラメンコの商業化と大衆化が進み、伝統的なフラメンコから変化した時期として知られています。
起源と名称
オペラ・フラメンカという名称は、実際のオペラ(歌劇)とは直接的な関係がなく、むしろ税制上の理由から採用されました。当時のスペインでは、オペラ公演に対する課税率は3%であったのに対し、バラエティショーなどの一般的な娯楽公演には10%の税金が課されていました。フラメンコ興行主たちはこの税率の差を利用するため、フラメンコ公演を「オペラ・フラメンカ」として宣伝し、より低い税率の恩恵を受けようとしたのです。
公演形態の変化
カフェ・カンタンテの時代(19世紀末〜20世紀初頭)からの大きな変化として、オペラ・フラメンカの時代には公演の場所がより大規模な会場へと移行しました。闘牛場や劇場などの大きな空間で公演が行われるようになり、より多くの観客を集めることが可能になりました。これにより、フラメンコはスペイン全土だけでなく、世界の主要都市にも広がっていきました。
芸術的特徴
オペラ・フラメンカの時代には、より大衆に受け入れられやすい軽快なスタイルのフラメンコが人気を博しました。特にファンダンゴは当時の主要なスタイルとなり、多くの個人的なバリエーションが生まれました。また、カンティーニャスや「往復の歌」(cantes de ida y vuelta)と呼ばれる、スペインとラテンアメリカを行き来した影響を受けたスタイル(ミロンガ、ルンバ、ビダリータ、グアヒーラ、コロンビアーナなど)も人気を集めました。
一方で、より古くて厳粛な伝統的なフラメンコのスタイル(パロ)は舞台から姿を消していく傾向がありました。この傾向に対して、伝統的なフラメンコを守ろうとする動きも生まれました。
純粋主義者の反応と1922年のコンクール
この商業化の流れに対して、詩人のフェデリコ・ガルシア・ロルカと作曲家のマヌエル・デ・ファリャは、1922年にグラナダでカンテ・ホンド(深い歌、伝統的なフラメンコの歌)のコンクールを開催する構想を持ちました。彼らはフラメンコが大衆的な成功を収めることで、その最も純粋で深い根源が失われることを懸念していました。
このコンクールには素人のみが参加でき、祝祭的な歌(カンティーニャスなど)は除外されました。審査員長は当時の歌の第一人者であったアントニオ・チャコンが務めました。優勝者は「エル・テナサス」という引退したプロの歌手と、後にマノロ・カラコルとして名を残すことになる8歳のマヌエル・オルテガでした。
しかし、このコンクールはほとんど反響を呼ばず、失敗に終わりました。ロルカとファリャは、すでにプロフェッショナルな性格を持っていたフラメンコの現状を理解できず、混合と個人的革新が特徴であるこの芸術において、実際には存在しなかった「純粋さ」を求めていたとされています。
主要なアーティスト
オペラ・フラメンカの時代には、多くの重要なフラメンコ・アーティストが活躍しました。その中には以下のような人物がいます:
- マヌエル・トーレ
- アントニオ・チャコン
- ペペ・マルチェナ
- ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス(本名:パストラ・パボン・クルス)
- マノロ・カラコル
また、この時代にはスペイン国内のアーティストだけでなく、カルロス・ガルデルのような南米のアーティストもフラメンコ界に影響を与えました。
映画産業との関係
オペラ・フラメンカの時代には、フラメンコと映画産業の結びつきも強まりました。アンヘリージョは1934年にベニト・ペロホ監督の映画「El negro que tenía el alma blanca」に出演し、スペイン第二共和制時代にはルイス・ブニュエルのいくつかの作品に参加しました。
また、フロリアン・レイ監督の「Morena Clara」ではインペリオ・アルヘンティーナがオペラ・フラメンカの作品を演じました。このように、映画を通じてフラメンコの人気はさらに広がりました。
評価と批判
オペラ・フラメンカの時代は、フラメンコの伝統主義者や純粋主義者からは厳しい批判を受けています。伝統的なフラメンコからの逸脱や商業主義への傾倒が、フラメンコの本質を損なったとする見方が強いです。
しかし一方で、この時代には創造的な開放性があり、現在のフラメンコのレパートリーの大部分が形成されたという意見もあります。また、コルドバのフラメンコ学者ゴンサレス・クリメントのように、内戦前のオペラ・フラメンカの初期段階には一定の価値を認める見解もあります。
オペラ・フラメンカの終焉と遺産
オペラ・フラメンカの時代は1950年代半ばに終わりを告げますが、その影響は現在も続いています。1956年にはコルドバで第1回全国カンテ・ホンド・コンクールが開催され、1958年にはヘレス・デ・ラ・フロンテラに初めてのフラメンコ学科(Cátedra de Flamencología)が設立されました。これはフラメンコの研究、調査、保存、推進、擁護に専念する最も古い学術機関です。
また、オペラ・フラメンカ時代に導入され、過剰に使用されたいくつかの歌は、エンリケ・モレンテやカルメン・リナレスのような歌手によって熟練と深みをもって解釈され、フラメンコの伝統の一部として残っています。
現代への継承
現在、オペラ・フラメンカの精神を引き継ぐ試みもいくつか存在します。例えば、マドリードの「タブラオ・オペラ・フラメンカ」は、その名前とコンセプトでこの時代を想起させています。彼らのウェブサイトによれば、「オペラ・フラメンカとともに創造的な開放性の時代が到来し、フラメンコのレパートリーの大部分が形成された」と述べています。
また、バルセロナでは「オペラ・フラメンカ」というグループが、フラメンコのコプラ、ソレア、ファンダンゴ、グアヒーラなどを現代的な形式で演奏しています。
結論
オペラ・フラメンカの時代は、フラメンコの歴史における複雑で議論の多い章ですが、否定できない重要性を持っています。商業的な要因から始まったにもかかわらず、この時代はフラメンコの普及と発展に大きく貢献し、現代のフラメンコの形成に不可欠な役割を果たしました。
伝統と革新のバランス、芸術の純粋性と商業的成功の調和、こうした永遠のテーマがオペラ・フラメンカの歴史に反映されています。フラメンコの愛好家にとって、この時代の理解は、フラメンコという芸術形態の複雑な進化と、それが持つ文化的・社会的文脈の深い理解につながるでしょう。
参考文献:
- flamenco.one
- flamencoforyou.com
- luiszaratan.blogspot.com
- Fundación Juan March(フアン・マルチ財団)
- IFEMA MADRID
- patiosinred.es
- Wikipedia
- teatrebarcelona.com
- lastablasmadrid.com
- tablaooperaflamenca.com